黒瀬珂瀾「幻視宇宙としての病室」






 子規は魅力的なエッセイを多数残しているのだが、そのなかでも僕が特に好きなエッセイの一つに、「ランプの影」という作品がある。明治三十三年一月十日発行である「ホトトギス」第三巻第四号に掲載されたエッセイなのだが、子規の数多いエッセイのなかでもちょっと毛色が変わっていて、大変におもしろい。
 病の床について、ひとり寂しさと手持ちぶさたを慰めていると、部屋中のものがいろいろな顔などに見えてくる、という話である。まずは天井板の木目が人の顔に見えてくる。顔の向きを変えると、今度は襖の模様やシミが、天狗や人の顔に見えてくる。ガラス越しに見える上野の森の空が、人の顔に見えてくる。そして、天井の隅を眺めていると、馬鹿に大きな顔が浮かんでくる。といった具合に部屋中どこを見回しても顔が見えてくる、という話から始まり、そして本題のランプの影へと話は進んでいく。
 子規が新年の俳句の整理や朱入れを続けていたところ、すこし疲れたのでボンヤリとして休んでいたが、枕元にあるランプが作った影がガラス障子のむこうに見えるのに気がつく。そして、しばらくすると、火の影のなかに人の顔が現れたのである。かわいい西洋人の子供、山高帽の紳士、小さな女の子、牛鬼、猿、古代西洋人の肖像、大目玉、丸髷の女、三宝荒神、キリスト、武者、般若、癩病患者、ギボンに似た顔、などなどが次々とあらわれ、まるで子規は見せ物の幻灯を見るかのように楽しんでいるのである。そして最後に、仰向けに寝た、活気のない、まるで死人のような横顔(おそらくは子規自身の象徴)があらわれて、見せ物は終わるのである。岩波文庫の『飯待つ間 正岡子規随筆選』に収録されているので、興味のある方には一読をお勧めする。
 これは、言わば子規にとっての「幻視の文学」であろう。子規は病室にあって怪異とたわむれているのである。元来、怪異とは外部から至るものである。妖怪変化は外界からやってきて人間をさいなむ。家の内とは結界のはられた安全地帯である。百物語なども、家のなかに怪異が現れているようだが、あくまでも、怪異を外部から呼ぴ寄せているのである。
 そういう意味では、この子規のエッセイはなかなかに興味深く読むことができる。子規は病室にあって、その内部から、そして自身の意識のなかから怪異を創り出しているのである。これは、病室という小さな世界に没頭することにより、子規が得た一つの特色と言えるだろう。

   こいまろぶ病の床のくるしみのその側に牡丹咲くなり

   武蔵野のこがらししぬぎ旅行きし昔の笠を部屋に掛けたり

   占鉢に植ゑし青莱の花咲きて病の牀に起きてすわりぬ

   青畳青色あせし我が庵に君がめぐみのくらししの皮

   瓶にさす藤の花ぶさ花垂れて病の牀に春暮れんとす

   わが病める枕辺近く咲く梅に鶯なかばうれしけんかも

 子規の歌を読み進めていくと、いろいろなものがその病室に置かれていたということがわかる。友人門人や家族が、子規の無聯を慰めるために持ち寄ったものがほとんどだが、いろいろと列挙してみれば、ずいぶんにぎやかな病室であったのかもしれない。その多くは鉢植えや生花などの植物であるが、それ以外の小物もいろいろと並べて置かれていたようだ。
 晩年の子規にとっては、病室は一つの世界であった。外界というものは、すべて病室という小世界を通じて感じ取るものであったのかもしれない。そんなとき、子規の想像の助けになるのが、この小さな病室に並べられたさまざまなものたちだったのだろう。
 病の苦しみに耐えかねて転げ回る子規のかたわらにあって、牡丹はその苦しみを和らげると同時に、苦しみのなかで忘れていた外界へのつながりを取り戻させてくれる。
 かつて行動をともにしたさまざまな品物を眺めることにより、以前の自分を思い出すと同時に、時間、空間を越えた感覚世界へ埋没していく。
 病の床近くに並べられたさまざまな植物は単純に目を慰めるためだけのものではなく、野に遊ぶ「われ」と、病の床につく「われ」との差異をかぎりなく小さくして、空想での遊びにどこかつながっていくためにクローズアップされるものである。
 これらの「アイテム」が、地理的には大変狭い空間である病室を、一つの世界として成立させ、広大な精神空間を得るために必須のものたちであったことは明らかであろう。それらを細やかに細やかに詠むことにより、それを触媒として、己のなかにある幻想空間を発現させているのである。そのとき、小さな病室は、子規にとって無限の広がりを持つ精神的宇宙なのである。
 二首目には「麓左千夫など来たりたるに」という詞書きがついている。子規の病室にはけっこう多くの来客がある。友人門人たちが歌会、句会、その他雑談や見舞い、看病に訪れている。そして子規は彼らのその訪問を丁寧に歌に残している。友人らの訪問を歌に読む動機とは、己の宰領する小宇宙へ他者を招き入れることにより、世界の増幅と浸透を願うということにあるのかもしれない。他者を懐に招き入れることにより、形而下的には狭い空間が、形而上的な広がりを見せるのである。

   ビードロのガラス戸すかし向ひ家の棟の薺の花咲ける見ゆ

   ガラス戸の外白妙にかがやける雪 小夜ふけて上野の森のあきらかに見ゆ

   ガラス戸におし照る月の清き夜は待たずしもあらず山ほととぎす

 その病室から外界を眺めるとき、己の世界をくっきりと際立たせる境界が必要になる。それがガラスなのだろう。「ガラス窓」という一連もあるくらい、子規は執拗にガラスを通した風景を詠んでいる。子規にとってガラスを通して外界をみることも、また一つの「幻視」だったのだろう。直接に見つめる場合とはまた違う世界を、子規はその晩年に見つめていた。我々の字宙とはまた違う小宇宙にその濃密な生を送った子規。小宇宙にいて外界を幻視すること、それはとりもなおさず己の精神の核を幻視し続けることでもあったのだろう。






■初出:『鱧と水仙』第19号 特集「地理的に読む子規」(藪の会、2002.8)




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