黒瀬珂瀾「朗読に思うことなど」(2)





 短歌朗読が持つ力のことを、「言葉によりひとつの空間を宰領してしまうことへの 魅力」と僕は以前発表した文章のなかで記した。そこでは、けっして高度な朗読技術 が必要とされるわけではないと思う。普段、紙上でのみ短歌に出会い、紙上(もしく はディスプレイ上)に載せられるために作られる短歌しか意識せずにいる僕たちは、 うっかりすると言葉を浪費し、言葉と無機的に向き合いがちになってしまう。言葉は 二次元の存在ではなく、三次元の存在であるという意識を忘れないための警鐘として も、朗読の空間は必要ではないだろうか? 僕たちがその空間で出会いたいのは「言 葉」であり、けっして「パフォーマンス」ではないはずだ。だから、朗読は誰でも参 加できるものとしてあったほうがいいように思う。すべての人に、単に「きもちい い」ものとしての朗読であっていいのではないだろうか。一人でも多くの人が「空間 性を得た言葉」に出会うきっかけとなれば、この朗読ブームも価値のある現象だと言 えるだろう。

 だが、そこで、ふと思い出すことがある。

あきののにさきたるはなをゆびおりてかきかぞうればななくさのはな  山上憶良
わがきみはちよにやちよにさざれいしのいわおとなりてこけのむすまで

かすみたつながきはるひをこどもらとてまりつきつつこのひくらしつ  良寛

これらの和歌を繰り返し読むことに関して「こえにだしてよんでみると、いみはわか らなくてもきもちがいい。たんかも、はいくも、にほんにむかしからある、詩のかた ち」(『詩ってなんだろう』より)と書く谷川俊太郎を批判して、辺見庸は『永遠の 不服従のために』の中でこう書いた。「私はこれがドスの効いた脅しに聞こえてく る。押しつけがましい情緒。」「詩人たちは、かつてこの国に『国民士気の昂揚』と いう国策にのった『詩歌朗読運動』というものがあったことを忘れてはならない。」 「この世には、喉の浅いところからの発声を拒む、なににせよたやすくはまつろわぬ 言葉だって多数伏在しているのである。」

 押し付けがましい情緒、とはなんだろうか。辺見が言うところの「まつろわぬ言 葉」の例として、彼があげるのは次のような歌だ。
この夜しきりに泪おちて偲ぶ雪中にひたひ射抜かれて死ににたる彼
応答に抑揚低き日本語よ東洋の暗さを歩み来しこゑ       宮柊二『小紺珠』

 だが、どうだろうか? この宮柊二の歌は朗読に適さないテキストだろうか?

(つづき)


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