黒瀬珂瀾「朗読に思うことなど」





 僕はもともと短歌朗読に肯定的であったわけではなかった。短歌が近代文学として 成立するために、その「朗詠性」を排除してきたという経緯があるからだ。しかし、 体験せずに否定するのはフェアではないと思い、いくつかの朗読会へと足を運んだ。

そして、はまった。

 そもそも、人はなんのために短歌朗読を行うのだろう。現代文学としての短歌は、 視覚的効果などを駆使するとともに、意思・意味をストレートに述べるよりかは、韜 晦的な表現および難解・複雑な比喩を使うことで、自立する文学表現としての洗練を 果たしてきた。つまり、現代の短歌は、本来朗読に向いているであろう「音で聞いた だけで意味が容易にわかる文学表現」とは言い難いはずだと思っていた。もし、朗読 をするために、詩的比喩のレベルを下げて、わかりよい歌を作るというのなら、それ はただの妥協であって、許されるべきことではないとも考えていた。

 しかし、マラソンリーディングに参加するにつれて、そう事は単純に行われている わけではないということがよくわかった。分かりやすいテキストによる朗読は、確か に内容は理解しやすいが、だからといって深い感銘を得ることが出来るというわけで はない。逆に、朗読スキルが非常に優れ、パフォーマンス性が高いからといって感動 するわけではないということもよくわかった。上手く言葉では言えないのだが、短歌 朗読とは、いかにその空間に満ちている空気と、朗読者の放つ言葉がシンクロする か、ということにかかっているのではないだろうか。

 その意味で言えば、短歌朗読とは身体芸術にどこか似ているように思われる。どち らも身体から表現が生まれ(無論、その演出次第では機器を通じて発声したり、肉声 を排除した表現もありうるだろうが)、表現者と観客が向き合った空間で執り行われ る一回性の芸術であるからだ。短歌朗読のためのテキストは、やはり朗読を意識して 書かれていないと面白い朗読は出来ないだろう。だからといって、先にも言ったよう に、わかりやすければいいとばかりに書いたテキストではつまらない。単純に妥協す るのではなく、それが発声されるということを意識して書くということは、つまり、 文字で表現される「短歌」が「肉体」と「空間」とに出会い、お互いに作用して、そ れぞれの普段見慣れた姿が変わってしまうということをもたらすのではないだろう か。

 だから、同じテキストを朗読で聞くのと、紙上で読むのとでは、その印象は大きく 違う。朗読は、その空間すべてをふくめて朗読だからだ。そんな不思議な祝祭空間に 立ち会うことの喜びを短歌朗読は与えてくれる。朗読者には朗読者の喜びが、観客に は観客の喜びがあふれる空間を創り出す。

 同時に、朗読は文体にも影響を及ぼす。「一人称の文学」としての短歌が少しずつ 行き詰まりを見せているなか、短歌がその文字を越えた「空間性」を得ることは、新 たな文体の可能性を思わせはしないだろうか。実際、岡井隆や田中槐らの歌集など、 その成果がだんだんと形になっているように思われる。
 鹿島茂が『セーラー服とエッフェル塔』で述べているとおり、近代に入って「黙 読」という習慣が生まれた。それまで書物は声に出して読むものだったが、黙読の習 慣が生まれたために、読書が「個人的行為」へと変化した。そして、「個人的読書」 に適したテキストが生産されるようになる(例えばポルノなど)。それを考えれば、 現代短歌も個人的読書・個人的執筆により生まれるものになっている。その個人的空 間の綻びを突き破るものとして短歌朗読がありうるなら、それはとても楽しいことで はないだろうか。

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(つづき)



■初出:「ちゃばしら」9月号(ウェブマガジン「ちゃばしら」、2004)
WEB上では全4ページ。


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