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2007年08月23日
六千万個の風鈴
★八重洲ブックセンターに行ったら、「中丸薫と闇の権力者とユダヤ」というコーナーがあった。
コノクニオワタ\(^o^)/ と思った。
★短歌研究新人賞受賞作の吉岡太朗「六千万個の風鈴」について一言。たぶん作者は、アニメオタやゲームファンと言うより、ストイックなSF読みの人のように思う。それも、ティプトリーJrとか、ジョン・ヴァーリィーとか、グレッグ・イーガン(『ディアスポラ』サイコー)みたいなタイプの作家が好きなんじゃないかと。と、いうのは一読者の勝手な感想なのでまあどうでもいい。SFだからといって、安易に井辻朱美の作品と同等に論じると痛い目を見る気がする(そんな評言が今後ちょろちょろ出てくるように思うけど)。井辻の作品はあくまでも自己から遠い、遥かな地点への眼差しに根ざしていたけれど、それとは対照的に「六千万個の風鈴」は暗い。というより、作者の内面に沈潜してゆく精神性がある。それが僕には「魂のリアリズム」だと思えた。だから、くっだらない元ネタ探しなんてまったく意味がない。というより、そんなに固定した元ネタは無いんじゃないかなあ(選考会での佐佐木幸綱の発言がどうにも珍妙に思えたのは、僕だけじゃないだろうと思う)。だから、元ネタを知っていたほうがより面白い、という読み方も何か違う気がする。単純に、「今、現在」を生きる二十歳の青年の《現実の葛藤や苦しみ、孤独や焦り》、それらの中でも、単純な現代の言葉ではまだ追いつけない微妙な感覚を、SFの意匠に託しているんじゃないかな。だから、表層的なタームや設定ではなくて、その奥に込められた感情の方が、この作品の主なのだと思う。それがヴィヴィッドに表現できているから、年齢がはるかに上の選考委員たちにも受け入れられたのだろう。
個人的に僕はこの一連を読んでわくわくしている。歌人それぞれにより表れ出てくる表層の姿がてんでばらばらとはいえ、ポスト・ニューウェーブ世代(吉岡氏を入れていいかどうか知んないけど)が一定の感覚を共有しているという確信をなんとなくつかんだからだ。これまで僕は、サブカルチャー的な表層(というよりオタク的な)の援用によりそれを解析してきたけれど、もしかしたら、もっと堂々と普遍的な感覚として表明していいように思えた。最近の個人的な見解は、「セカイ系」短歌なんてものは無かったし、東浩紀の論理では短歌は語れないんじゃないか、というところに落ち着きつつある。そういったことも含めて、「六千万個の風鈴」は僕にとっては刺激的だった。
投稿者 Karan : 2007年08月23日 00:15
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