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2004年11月13日
『電車男』

★ 新幹線で隣になったお兄さんが読んでた。売れてんなぁ。もう五刷で二十万部とか? ちょっとしたベストセラーだね。どういう話かというと、某巨大匿名掲示板2ちゃんねるに書き込みしてたオタクの青年が痴漢に遭っている女性を助けたというのが発端。女性の方が青年に好意を抱くのだが、オタク青年はどう対応したらいいかわからない。で、掲示板に「どうしたらいいか」といった感じで書き込みする、そしたら匿名の大勢の人間が、彼にアドバイスし、励まし、そして青年は少しずつ勇気を得て、行動に移していく。そんな青年(電車男)と彼女(エルメスさん)と、匿名の大勢の感動ストーリーということで、映画化も決定してる。
黒瀬はリアルで知ってたので(「電車男まとめサイト」)わざわざ買うこともないけど、そこはオタの悲しい習性で発売日に初刷ゲット。そしたら中身は2ちゃんのスレッドの形式をそのまま踏襲してるもんだから(多少編集してるけど)、はっきり言って読むに耐えない。読みにくい。だから読んでません。
これが実話かネタなんてことには、まったく興味がない。黒瀬としては2ちゃん世代のコミュニケーションの面白い形での表出として評価します。話の内容だけで考えれば、非常に面白いです。だけど、2ちゃん発の新世代文学だなんていう売り込み方はふざけんな、と。これがポストモダンとか言ってる人、ちょっとどうかな。極論を言えば、これは参加したすべての人間のナルシシズムで成立している「ログ」なんだと。そこには、旧来的な「意識」の脱構築も疑いも存在しないわけで、やはり文学ではない。余計なことを言えば、ネット上で事件を熟知してる人ならば、この書籍化されたストーリーの後日談を知っていると思うが(知らなければ、知らないままでいてください。)、そこから逆照射してもこの構築されたストーリーの軽薄さがよくわかる。これは、当事者に言っているのではなく、それを書籍にプロデュ―スした編集に言っているのだ。
あとそれと、世間の若き女性の方へ。「オタクの男の子って、こんなに純真なんだ」とか、「私もこんな恋愛してみたい」とか思って2ちゃんねるに書き込むのだけは絶対に止めてくださいね。本当に悪意が渦巻いてるんですよ。
★ 今日は「綱手」所属の日向輝子さんの第一歌集『奇想曲』の出版記念会に出席する予定だったけど、のっぴきならない用事で遠出することに。今日帰ってこれるかな? 泊りかな?
★ 昨日書いた歌は、上村かすみさんという70才代の方の歌なのだそうです。お知らせどうもです。誤解なきように書いておきますが、別に上村さんの歌がいい、悪い、と言ってるんじゃありません。舟橋氏が、この歌を優れた「写生」の歌として取りあげたのはどうしてか、と聞いているだけで。
★ そういえば今日は名古屋で「プロムナード現代短歌」があったのですね。みなさん楽しみましたか? まあ、楽しんでるだけじゃどうにもならないけど。
★ 「げんげ」という魚を初めて食べた。から揚げで。なんというか、白身が溶けそうにやわらかくて、上品な味。見た目はかなり醜悪なのだというが。詳しく知りたい人はこことここ(トップはこちら)、それと実際の写真はこことここに。
ぬめりがあるらしく、生だとそれをずるずるっとすすって食べるそうだ。一度そのやり方で食べてみたい。東京にはないだろうなー。
投稿者 Karan : 2004年11月13日 00:00
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コメント
こんにちは、私は、君枝ともうします。
これからもエルメスさんと仲良くに!
投稿者 きみえ : 2006年10月17日 16:01
あ、黒瀬さんの基準では、「朝光にさらす腕の強き脈搏」は写生じゃないんですね。黒瀬さんの写生観が知りたいなあ。私は子規のいう写生(=写実)だけが写生の名にふさわしいと思っているので、子規の言葉にこだわってしまうんですけどね・・・
「実際のありのままを写す」の「実際」は、作家自身が直接体験した(見た・聴いた・触った・味わった等)事柄です。「ありのまま」は、比喩やら、他の伝統和歌の技法やらを使っていないということですね。子規が言うことには、この2つをクリアすれば、それは写生だ、と。子規の論は歌の作り方を指南したもので、単純なんです。ところが、歌を読む方としては、歌の内容が「実際」かどうかなんて分かりっこない。それは、作家のみぞ知る、です。だから、読者がある歌を「写生」と断定することは不可能で、かろうじて判断できるのは「写生」的傾向が強いかどうかだけ。どうやって判断するのかというと、要するに、実際「らしい」かどうか、及び「ありのまま」かどうか、を見るのです。「ありのまま」かどうかは、歌を見ればはっきり分かりますよね。
そこで「朝光にさらす腕の強き脈搏」を見てみると、「朝光にさらす」という時間・空間の設定、脈搏の強弱といった細部への言及、いずれも伝統和歌一般に比べて具体的ですから、実際「らしさ」はみとめられると思います。そして、ここに隠された比喩があるとは到底思えないし、伝統和歌の技法もまるで使われていない。つまり、「ありのまま」です。だから、子規の論にしたがえば、この下句は「写生」的傾向が強いと思うんです。
長文失礼しました・・・
投稿者 なかにしりょうた : 2004年11月16日 00:07
んー、僕としては下句も「写生」的傾向が強いとは思えませんがー。舟橋氏は、別に何か書いているわけではなくて、ただ、このような歌に出会えてよかった、見たいなことしか書いてないです。だから、余計、なせこの歌が「写生」と判断されるのか気になります。
ネットの歌会に出されたそうで。そのログが公開されてるのなら、多少の選歌理由とかがかかれているのでは。探す暇ないですが・・・。
投稿者 からん : 2004年11月15日 03:12
こんにちは。突然すみません。
「写生」について。舟橋氏の文章を読んでいないので、舟橋氏がどういう意味で「写生」という言葉を使っているのか分かりませんが、一応、「実際のありのままを写す」のが写生だ、という子規の説に従うなら、「朝光にさらす腕の強き脈搏」は明らかに「写生」的傾向の強い表現ですね。
「いわれなき哀しみ誘う」はいわゆる「主観」だから、写生じゃありません。でも、これを写生と捉える捉え方が一般的になっているとすれば、それはそれで興味深いですねえ。子規の弟子や孫弟子たちは写生論義を堕落させた(?)のだと思いますが、その堕落した写生論議が、さらに薄まった形です。
投稿者 なかにしりょうた : 2004年11月13日 14:54